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イーココロ

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2006年12月24日 (日)

漫画家の弟子 第5章

 初めて先生に着いて行った時、東京の住宅地の縁の、高田馬場の古い宿屋の三つ続きの部屋は、昔の大邸宅だったと思った。時田は一番小さい部屋で眠り、先生は〆切間際の大忙しの時はいつでも家に帰れずにいた。私たちは2階の広い12畳の部屋からは松や、杏、楓の木や石橋が架かる鯉の池がある日本庭園が見えた。浴室のタイル張りの湯舟はいつでも熱い湯に満ち、食べ物もほとんど何時でも頼めた。そこでの第一日に、時田と私はバルコニーの手摺を乗り越えて、屋根瓦の波に裸足でちょこちょこ歩きながら昇っていった。屋根の一番高い所はほとんど四階程の高さがあり、そこに物干し台があった。
「凧を揚げるのに良い場所だ。」
煙草に火をつけながら時田が言った。物干し台に腰掛けると、私たちは近所の何よりも高い所にいた。まるで自分の領地を眺める将軍のように二人は感じていた。
「見てみろ、人が虫のようだ。」
時田は物干し台から、屋根の峰に降り立った。
「遊ぼう」
時田は下の通りめがけて漆喰片を投げながら言った。
「あぶない、逮捕されたいのかい?」
時田はシーっと言った。私も時田に続いてうずくまった。
「君の番だ。」
彼が私に土の塊を渡した。私はためらった。
「やれ!誰も殺しゃしないさ」
私は屋根の向こう側にいいかげんに塊を放った。
「弱虫!思い切り投げなかったな!こういう大きいのを持て。」
時田はクルミ程の土くれを、犬を散歩させている人を狙いながら言った。私たちはその弾が人と犬をはずして歩道で破裂するのを見るや否や、身をかがめた。
「君の番だ。」
時田は大きな塊を渡して言った。私は通りめがけて思い切り投げた。
「いてっ!」と声がした。
私たちは頭を突き出したいのをがまんした。時田に続いてうずくまり、息を殺していた。時田は両手で口を押さえていた。
「お前、お前---、見事命中だ。」
笑いを押し殺しながら時田が言った。
「誰も狙わなかったよ。」と私はささやいた。
「それが命中の秘訣だ。」と時田。
しばらくの後、私たちはゆっくりとカニのように屋根から降り、部屋にもどり、そこで大笑いした。
「どうしたんだ?」
先生が戸口の私たちの後ろから聞いた。私たちは座りなおしたが、先生を見てまた大笑いした。先生はいつもの着物を着ていたが、等身大の裸の女性の像が貼り付いていた。
「楽しんでくれて嬉しいよ。しかし長くは続かんな。ミロのビーナスとの出会いは、二つの苦痛と多くの悲しみを与えるだろう。」
と先生は告げて、肖像を床に置いた。
「冗談を言い合っていたんですよ、先生」涙を拭きながら時田が言った。
「キヨイが命中させたってのをご存知ですか?」私は時田をにらんだ。
「ろくでもないことしてたんだろう。仕事の用意はできているか?」
「もちろん」私たちは熱心に言った。
「よろしい、最初の2頁を仕上げたら大ご馳走をおごろう。」
「どこで?」と時田が聞いた。
「高級料理屋だ。時田、穴の開いていない靴下を持っているかな。生きたドジョウ鍋だ。食べたことあるかい、キヨイ」
 私は首を振った。
「まず、鍋に少し水を張り、真ん中に豆腐を置く。ドジョウはその周りで泳いでいる。それから、机の七輪に鍋を置く。沸いてくるとドジョウは熱くない豆腐の中に潜り込む。そこでこの料理のできあがりだ。何とすばらしいじゃないか。」
「なんて野蛮な!」と私。「そんなの聞いたことがない。」
「キヨイ、野蛮てのは美食には通用しないんだ。時田、靴持っているかい?」
「先生、テニス靴があります。」「そうだったな。」
「今日稿料が入るはずでしょう。」時田がニヤッとした。
「どう思う?」
先生はそう言って、部屋に着替えに行った。
「そうだ、先生を狙ってないな。」と時田は消しゴムを私に投げた。私はひょいと頭を引っ込め、また笑い始めた。
「よーし、ちょっと仕事だ。」
先生は言って、机の前にすわった。宿屋の用意した浴衣を着ていた。先生は煙草に火をつけ、しばらく黙っていた。時田と私は、この偉大な先生が考えるのを観察していた。
「『我輩の辞書に不可能という文字はない』と言ったのはナポレオンだったっけ?」と先生が尋ねた。
「はい」と私は答えた。
「不可能なことを思いつくのは難しくないけどね。馬鹿につける薬はないとか。」時田はことわざを引用した。
「悪くはないが、悲劇性が少ないな。」
「水のないところで魚は取れない。」私は別のことわざを持出した。
「すばらしいけど、哲学的過ぎる。もうちょっと日常的なのがほしいな。」
「じゃこれは、自分の肘は舐められない。」私は大声で言った。すると先生は袖をまくって自分の肘を舐めようとした。
「ほんとだ、時田できるかい。」
そこで三人は座り込んで、自分の口で自分の肘を舐めようとした。
「これだ!時田数え上げよう。」
先生はすぐ日本のナポレオンの辞書にある不可能を並べ立て始めた。
「どんな風にアイデアを思いつかれるんですか?」私は尋ねた。
「君たちもアイデアをくれたじゃないか。」
「先生は連載の次の回に何が起こるか、前もって考えておられるのでしょうか?」
「まったくないね。いつも何かしらが起こるんだ。アイデアがどこからともなくやってくるなんて言っているんじゃない。君たちのアイデアがボクの心を進ませて、物語はそれ自体で展開して行く。君のまわりで起こることすべてに注意を払うんだ。芸術家にとって記憶は最も重要なものであることを思い出せ。想像力と呼んでいるものは記憶の再配列なんだ。記憶なしにはイメージできない。それから直感がある。注意を払えば直感の最後は遊びに入ってくる。自分の直感を信じることを学ぶべきだ。」
「みんな直感を持っているんですか?」時田が尋ねた。
「そうだ、他より強い者もいるが、誰でも直感を持っている。」
「だけど、先生のように次から次へと思いつけるのはどうしてです?」しつこく私が聞いた。
「注意を払っているからさ。もし、キミが言ったことに注意を払わなかったら、ボクはまだナポレオンと格闘しているだろうよ。」
「でも、先生ははじめの所で僕らにアイデアを望まれました。」と時田が指摘した。
「まさにその通りだ時田。中国の老師が、答の近くにいなければ問いは発しないものだといった。」
そうなのかな?もしそうなら、すべての問いに答がなければならない。それはいつでも、何かに問うたら答が目と鼻の先にあるということなのかな?それから私は、答はいつも問いのうちにあるということを考えていた。それは可能だとは思えなかった。あんまりややこしかったし。一人になった時にゆっくり考えようと思った。
 先生は楽しく夜遊びするために、私たちを銀座に連れて行ってくれた。私たちはネオンに照らされた広い並木道を歩き、裏通りでは仕事を終えたたくさんの勤め人たちがひしめいていた。狭い通りはトリや肉の焼く匂いがただよう飲んだり食べたりする店ですし詰めだった。カフェの女給が店の前で私たちを呼び入れていた。女給たちは点滅する光の下で、とげとげしく美しく見えた。先生は小さな玄関の料亭に私たちを導いた。私たちは玄関で靴を脱ぎ、女性の店員がその靴を下駄箱に入れ、階上に私たちを案内した。料亭は巨大な一間だ。客たちは机の前に座り、和服の仲居が皿の山や、魚や出汁の湯気を立てた鍋、酒やビール、お茶など机の間を運んでいた。
「安心しろキヨイ、ここはドジョウの店じゃない。」座った時先生が言った。
「今夜は大胆にも、命をかけようと決めたんだ。フグがこの店のおすすめだ。」
「フグ?」時田が聞き返した。
「食べたことあるかい?」私と時田は首を振った。
「調理するのに大変な技術の要る、すごいごちそうなんだ。」
「毒ですよね」と私。「生殖腺は致命的だが、肉はうまいぞ。」
「食べて死ねる。」と時田。
「そこが刺激的なんだ。さあ、冒険心はどこへいった。今夜は大胆だっていったろう。ここの料理長はボクのいい友だちさ。これまで誰一人として殺してないのは知っている。」
「君子危うきに近寄らず。」と時田。
「孔子だろ。菜食主義者が何を知っているんだ?」
「孔子って菜食主義者だったんですか?」
 私は無邪気に聞いた。
「ヤバイ魚を食べるのを避けるようなやつは菜食主義者だよ。だけど、何でも好きなものを注文したまえ。カニやエビもお勧めだよ。」
「フグに挑戦します。」時田が言い、
「私も」と私も。
「それでいこう。ほれ、これがキミらに勇気を与える。」
先生が熱燗を勧めた。仲居がフグを持って来るまでに時田の顔は赤くなっていた。
「キヨイは酒飲みになるなあ。」先生が目の周りを赤くしながら言った。
時田と違って、私の顔色は酒で変わらなかった。フグは澄んだ出汁で煮て、タイやヒラメなどのふつうの魚と同じような味がした。さんざん覚悟したのに、これにはがっかりした。

(訳堀田穣)
The Ink-Keeper's Apprentice
Allen Say
Houghton Mifflin, 1994

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