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イーココロ

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2007年1月23日 (火)

漫画家の弟子 第6章

二週間が早く過ぎた。土曜日、学校が始まる前に私は午前半ばに宿屋に行った。部屋は空だった。私は何度か時田の名前を呼んだ、すると彼の部屋から押し殺した音がした。私が引き戸を開けると、部屋の真ん中に時田が、障子に向かって足を組んで座っていた。それを見て、彼は瞑想しているのだと思った。時田がこちらを振り向いた。顔中が血の筋で覆われていた。
「どうしたんですか?」ぞっとして私は時田に叫んだ。時田は答えなかった。彼は小さな手鏡とかみそりを持っていた。
「何をしてたんですか!」私は再び叫んだ。
「にきびさ、くだらないにきび。つまんだり、つぶしたりしたけど、すぐ出てくるから切ってやった。」
「ばかなことを!顔に傷跡が残ってしまいますよ。」
「それがどうした?なんで気にしなくちゃいけない。お前はにきびないじゃないか。」
「すぐやめて下さい。自分を切るのはやめて下さい。」
 時田は近眼だが、私を厳しくちらりと見た。玉の汗のように血が彼の顔を流れた。時田を見ながら吐き気がした。彼はポケットからしわくちゃのハンカチを取り出し、それで顔を覆った。一瞬のうちに白い布が赤く染まった。
「ヨーチンを持って来よう。」「かまうな、すわれ。」
「だけど、顔を殺菌しないと。」「いいから座れよ。」
私は時田に向かって座った。時田が顔を拭いているうちに、出血は止まった。彼の顔には剃刀傷が縦横に走っていた。時田はメガネをかけ、笑った。彼はガス栓を指して、
「これ見たか?どのくらいで死ねるんだろう。自殺するには一番いい方法だっていうぜ。何にも苦しまない。眠りについて、決して起きなくなる。」
すると時田は床に横たわり、顔をガス栓のすぐ前におき、ガス栓を思いっ切りひねった。私は冗談だと考え、座ったまま何も言わず、彼がガス栓を戻すのを待った。すぐに小さな部屋はガスの匂いでいっぱいになった。時田は横たわったままで、ガス栓を戻す気配はなかった。彼が私を試しているのはわかったが、私はどう反応してよいのかわからなかった。ガスのシューと吹き出す音がやけに大きく聞こえ、時田は死体のように転がっている。私はうろたえた。部屋を飛び出し、狂気のようになって先生を呼びに行った。私は階段を駆け下り、靴下のまま庭に飛び降り、鯉の池の周りを意味もなく走り回った。それから浴室に突入した。誰もいない。漫画家の先生すらいない。私は時田の部屋に駆け戻った。もはや悪臭は耐えられない程だった。息をつめて、窓に突進し排気し、ガス栓を止めた。時田は静かに横たわり、目は閉じられていた。厭な考えが私の心を横切った、おそすぎたか。私は時田を乱暴に揺り動かした。
「ど、どうしたんだ?」
彼はぼやーっとつぶやいてわけがわからないようだった。私は障子に走って、ぐいっと引き開け、自分の息を吐き出した。
「ばかやろう!最低!」私は怒鳴った。彼が生きていたので、私は自分の激情を吐き出した。
「おとっつあんが酔っ払いだって、300マイル歩いてきたからってにきびだらけの面だからって、ただものではないと思ってようが
あんたは最低だ!」
「ぎゃあぎゃあわめくなよ、頭が割れそうだ。」
「けっこうだ、その頭割ってやりたいよ。」
「落ち着けよ、ちょっと実験しただけだ。なんか薬がないか、先生の部屋を見てくれ、頭が…」
「もし実験なんかしたいんだったら、周りに誰もいない時にしてくれ。」私はそう言って、薬を探しに行った。コップの水と、4錠のアスピリンを持って戻った時、時田は起き上がり、気弱な笑顔を見せた。
「飯食いに行こう。麺をおごってやる。」
薬を飲みながら時田は言った。私の膝は震えていて、胃はムカムカしたが、時田が生きていて、体重を感じないほどホッとしていた。しかし私は時田に怒っていることを示すためにしかめ面をし続けた。しばらくの後、私たちは小さな食堂をよたよたと出た。外は気持ちよく、空気が新鮮だった。私たちは黙って、互いの目を見ないように昼食を食べたのだった。時田の顔はめちゃくちゃだった。
「頭はどう?」終りに私が聞いた。
「ほとんど普通にもどったよ。」彼は弱々しく微笑んだ。
「じゃあ僕の部屋へいってみる?」
「俺のこと怒ってる?」
「いいや、来たくない?」
「誰にも会いたくない。」「誰もいないよ。誰も君の顔を見やしない。」「そんなにひどいか?」
「ちょっと傷隠しした方が良いね。時田どう?仕事の情報交換したいし、僕の学校も来週からだし。もし来るなら今日が良いよ。」
「誰も家に来ないというのは確かかい?」
「約束するよ。」「わかった、よしよし。」
彼はまるで私を世話していたように言った。まあこれが時田のやり方だ。私の住んでいた地区は、戦争中にひどくやられ、ほとんどの粗末な家は4、5年前に大慌てで建てられたものだった。未舗装の道路や小道は雨の後、どろどろのぐちゃぐちゃになった。時田は私がこんな近所に住んでいるので驚き、少し嬉しくなっているように見えた。私の部屋はいつもより殺風景だった。すりガラスを通した弱々しい光で、まるで禅寺のように部屋を見せていた。電熱器の上のアルミニウムのヤカンの鈍い光さえ、暗い明かりの下で輝いて見えた。ラジオすらなく、古い目覚まし時計が机の上で大きな音でチクタク時を刻んでいた。
「ここが僕のウナギの寝床さ。」私は手を開いた。
「信じられん。」時田は驚いていった。彼はどこかに別の部屋が隠されているのではないかと見回した。
「父さんと母さんは死んだのか?いや、誰が君の世話をしているのかということだ。」
「孤児じゃないかと思っているとしたら、それは違う。さあ、座って。お茶でもどう?」
「ああ、だけど、誰が?」
 時田は何が何だかわからなそうだった。私は楽しんでいた。
「僕が自分で。うーん、母親は生活費をくれる。両親は離婚したんだ。」
「離婚?そんなのは今まで聞いたことがないぞ。離婚したなんてのは。」
「そうさ。他人には離したことがないんだ。学校でも誰も知らない。」
「君が一人暮らしだと知らないんだ。」
「もちろん、これまで誰も家に連れて来ていない。」
「光栄だな。しかし、両親はどこに?」
「母は横浜に小さな店がある、化粧品を売っている。父は九州だ。戦争で僕らの家は焼け出され、父は東京で仕事を見つけることができなかった。父は再婚しそちらの家族がいる。僕はここ東京に家がある祖母に預けられ世話されていると親は思っている。一年前まで祖母の所で暮らしたが、うまくやっていけなかった、だから祖母はこの部屋を僕に貸したんだ。こんなことに興味があるかい?」
「うむ、でもこれまで話さなかったのは何故?」
「先生に知られたくなかったんだ。」
「キヨイ、言わせてもらえば、先生には何でも話せるんだよ。」

「僕は先生が、僕の両親の許しが無いと知れば僕を弟子にしてくれないだろうと思っていたから、両親のことで嘘をついたんだ。僕のような年齢で一人暮らしだなんてそんなの誰がいる?僕がこんな所で一人暮らしてるなんてことがばれたら、学校から退学させられるだろう。」
「こんな所ってどんな意味だい?いい所じゃないか。世話がどうした。犬の世話でもさせておけよ。青山へ行っているのは本当だろう?先生は金持ち学校だっていってたぞ。お高くとまった奴らは嫌いだね。入試に合格したら君がどこに住もうが何の関係があるもんか。学校なんてどこでも時間の浪費さ。学校で僕がやってたのは喧嘩と漫画描きだけだ。ここは好きだよ。」
「僕もそうだ。でも朝起きた時にどこにいるのかわからない時があるんだ。こんな気持ち分かるかい?けれどやりたいのは読んだり描いたりすることだけさ。」
「自分の場所を持てるなんて幸せなことだよ。君の親父は何している人なんだ?」
「父は真珠を売っている。」
「それじゃ金持ちだ。君は横浜生まれだといってたっけ。」
「うん、でも戦争中、B29の空襲で母と僕は山口の親戚の所に疎開していた。父は金を稼がなきゃならず、東京で働いていた。」
「山口?広島の向こう側かい?」
「そうだよ。一時間くらい列車でかかる。」
「原爆を憶えてる?」
「とても。8歳の時だった。山に取り囲まれていたので閃光は見られなかったけれど感じたんだ。大きな地震のようだった。家がひっくり返ると思った。午後に母が新聞を読んで、広島に原子爆弾が落とされたと言った。でもそれがどんなものか誰も知らなかった。」
「憶えてるよ。僕は11歳だったはずだ。どちらも何だか分からなかった。誰も知らなかった。」
「いとこが広島で働いていて、僕らは心配していたんだけど、彼女は午後遅く帰ってきた。列車は広島から逃げ出す人でいっぱいだったそうだ。ひどいものだった。」
「彼女はまだ生きてるの?」
「ああ、まだ皮膚の下に砂利やガラス片が残っているけど。よく僕に皮膚を触らせてそれ等があることを感じさせてくれたよ。そして髪の毛はすべてなくなっていた。家に着いた時彼女の皮膚は焼け爛れ、恐ろしい匂いがした。彼女は一晩中わめき叫び、男が二人がかりで寝床に押さえつけなければならなかった。というのも、苦しがって刃物をくれと言い続けたんだ、で男たちは私と母にナイフやはさみやともかく尖っていて彼女が自殺できるものすべてを隠せと怒鳴ったんだ。後でいとこが僕に語ってくれたが、原爆が落ちた後、彼女らが働いていたビルが崩れて、女友達と火と煙の中を逃げ惑ったそうだ。いとこの友達は水をずうっと欲しがって、最後に壊れた管から流れていた水をいとこが見つけて彼女に飲ませた。友達はそれを飲んで死んだ。それでそれ以降いとこは水には触れなかったそうだ。」
 時田は時々じろっと私を凝視した。
「アメリカは嫌い?」
「B29は嫌いだったし、黒いグラマンをおぼえてるかい?低空飛行で機銃掃射してくる。いつもアメリカ人は飛行機で来てたからさ、変だけど。おかしいけど、アメリカ人が人間だと考えてなかったよ。」
私ははじめてアメリカ兵を見た時のことを思い出した。戦争が終って数日しかたっていなかった時、母と私は佐世保という港町

に父と会いに行った。長くて恐ろしい旅だった。でも、長い離別の後で、私たちは本当に父に会いたかったから幸せだった。列車から降りると、私たちはいたる所でアメリカ人を見た。彼らは巨大だった。アメリカ人のほとんどは水夫で、腰に拳銃を下げている者が多かった。アメリカ兵の前を私たちが通る時、彼らは母を指差して笑った。母は農婦のような服装をしていたから、たぶん彼らから醜く見えたのだろう。アメリカ兵たちはやかましくしゃべり、煙草に火をつけ、プラットホームの上で長い銃床を軽く振り回した。ボロ服をまとった労務者の二人組が兵士の後ろでひっくり返り、彼らは大声で笑った。私は日本人を恥ずかしく思い、アメリカ兵の大きさが私を怖がらせた。
「父親は朝鮮人なんだ。」時田にはすべてを話したくなっていった。
「だから?」時田は私の言っている事が理解できないかのように首を傾げた。
「えー、驚かないの?」
「何で驚かなきゃならんのだ?それで何か違うのか?父ちゃんは父ちゃんだろ?」
 私は彼の反応に少しがっかりした。私の両親が離婚したと聞いた時のような反応を期待していたのだ。
「誰にもこのことは言ってないんだ。母方の親戚は父との結婚で母を勘当した。朝鮮人と結婚するなんて侍の家系にとって最大の恥辱なんだ。」
「人々はかくも愚かだ。」と時田は冷笑した。
「実の所、祖母は母を勘当したんだけれど、今は母を支えている。本当に僕はこれに腹を立ててるんだ。戦争中朝鮮人はみんな市民権がなかったって知ってた?父は祖国を失った人だったんだ。憲兵は父をスパイだと考え、拷問した。だから今、父はたくさん金儲けをしてよその国へ移住しようと思ってる。父は、日本人が中国で恐ろしいことをしたといっている。」
「そりゃやってるさ。戦争なんだ。君がそんなことを覚えているというのもおかしなことだ。君がいとこの話をしている間、僕は終戦の日のことを考えていた。その日、もういつでも寝られるようにして、そしてもうサイレンを聞いて家から飛び出さなくてもいいんだと考えていた。母ちゃんがもうサイレンは鳴らないといったんだ。その時誰かが外でわめいていた。母ちゃんと、弟と僕は雨戸の蔭から何が起こっているのか覗こうとした。交差点であぐらをかいて、なにやらわめいたりののしったりしているこの男の他誰もいなかった。もっとも酔っ払いすぎて何を言ってるのかいっこうに分からなかった。彼がなんやかやとどなっているのが、ああ、天皇の玉音放送をまねているんだと突然理解できた。しばらくして、彼は泣きじゃくり誰も助けようとしなかった。ひどい状況だった。それから『トミ、トミ』と叫び始めた。変だなと思った。トミは母ちゃんの名前だ。すると母ちゃんは雨戸を開けて家の外に走り出たんだ。その男は父ちゃんだった。信じられなかったね。父ちゃんはそれまで絶対禁酒だったのが、それ以来大酒飲みになった。
俺たち兄弟に国の為に死ぬことを望んでいたのに、今は何にもなくなっちまった。」
「兵隊にとられるような年じゃなくてよかったよ。」と私。
「そうだよな。」と時田。しばらく冷たいお茶を飲んで沈黙。それから時田が言った。
「君の絵を見せてみろよ。」
「あんまり見せたくないな。うまく描けてないんだ。」
「何いってんだい。見せてみろ。」
学校で使っていた二冊のスケッチブックを私は時田に見せた。時田が座って熱心に頁毎、凝視するのはつらかった。それは自分の正面で自分の日記を読まれるようなものだ。
「いいよ、だけどもっと描かなくちゃ。半日でこんな帳面いっぱいにできるよ。本物を描いたことあるかい?」
「何のこといってるの?」
「ヌードさ。」
「いいや、君はあるの?」
「先生は僕を夜の組に入学させたんだ。火曜日と木曜日の夜。」
「ほんとにモデルは裸なの?」
「もちろん。素っぱだかさ。陰毛まで見える。」
「どぎまぎしないのかい?」
「最初はね。でも慣れるよ。銭湯へいけばみんな裸だろ、それと同じさ。わかる?先生はたぶん君も行かせるよ。そしたらわかる。」
「でもまだ準備が。」
「もうはじまってるさ。」
「そうだな。」
裸の女性を描くというのは私を興奮させたが時田にはそのことを知られたくなかった。
「これでも飲むかい?」私はポートワインを持出した。
「こんなもの、飲むの?」彼は疑わしげに言った。
「時々、少しだけ。お隣さんがある晩持ってきてくれたんだ。血の巡りがよくなるようにとね。」
「うん、飲むよ。お隣さんは何をしてる人だい?」
「文学を勉強してる。空手の黒帯なんだ。」
「強いのかい?」時田が興味を持った。
「知らないけど、空手二級の人が殺されそうになったらしいよ。」
 私たちは安ワインを杯一杯ずつ飲んだ。
「こりゃいい。」時田が言った。私は彼にもう一杯注いだ。
「夕食食べに宿屋に帰るの?」
「いいや、今夜は仕事がない。先生は週末で家に帰っているし。先生はいつでも家を訪ねてくれといってるけど、お邪魔するつもりはないね。」
「そうだな。カレーライスはどうだい?渋谷にいい店がある、たった80円だ。」
「顔は今どうだい?」
「大丈夫。暗い所だからだれも注意しないよ。」
「行こうか。」時田は立って腕を伸ばした。
「自転車貸してくれないか?」
「いつでも使っていいよ。ほとんど使わないんだ。」

(訳堀田穣)
The Ink-Keeper's Apprentice
Allen Say
Houghton Mifflin, 1994

原爆の体験など、自傷気味の時田のエピソードもあって凄惨。一日半ページくらいのペースになってきた。

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