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イーココロ

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2007年2月27日 (火)

漫画家の弟子 第7章

  学校に戻るのはつらかった。私は決して良い生徒ではなかったし、勉強は以前にも増してつまらなく思えた。時々、私の学校は生徒より先生の方が多いのではないかと思えたし、その先生たちが生徒にどっさりと宿題を負わせた。他の生徒たちが上手くやっていけているのが、よくわからなかった。そういう連中はしあわせで愚かに見えた。私は親友を持たず、私の考えを打ち明けることのできる友達はいなかった。私は学級で一番背が高く、そのせいで事がややこしくなった。いつも私は教室の後ろの方に座って、目立たないようにしようとしていたが、先生は度々私に英語の一文を訳させたり、よくわからない歴史上の人物や年号をいわせたりした。いつも私は先生に驚かされた。私は立って答を言わねばならず、学級中が振り返って、私を笑いものにして見た。それから朝礼では寒い講堂に座って、お説教を聞かなければならなかった。私は学校が嫌いだった。
 時はゆっくり過ぎた。私は私の弟子入りが母に知れること、更に悪いことに祖母に知れることを心配していた。ところが実は、私は学級でビリで、祖母にそれを知られないようにする手立てはなかった。学校はひどいやり方で生徒の順位を伝えたのだ。それは、中間試験の後、父兄をみな学校に呼び出して、彼ら自身に試験の紙を点検させたのだった。自分の子のだけでなく誰のものでも見ることができたのだ。そして私の保護者である祖母が、私が見るよりも早く私の成績を見てしまった。私が漫画家の勉強をしていると見つかったら祖母は何と言うだろう。最も悪いのは祖母が私の部屋を取り上げてしまうことで、それは考えたくもない。
 学校はダラダラと続いた。先生は実物モデルを描くクラスに私を登録し、その初めての夜、私は時田の仲間に加わるのが嬉しかった。そのクラスは七時に始まるのだが、30分も早く着いてしまった。スタジオは片面が天窓になった尖った屋根の大きなビルにあった。とてもモダンでヨーロッパ風のビルは日本家屋の間から目立って見えた。スタジオの中は舞台のようで、部屋の中央が台になり周りを椅子が囲んでいた。寒い夜で、部屋の隅ではダルマストーブが焚かれていて、舞台は三つの照明で照らされていた。数人のまじめそうな大人、ほとんど男性、が舞台近く影法師のように立っていた。彼らはひそひそと話をし、煙草の煙が輪になって立ち昇り照明に当っていた。彼らは椅子にだらりと座った、黒いローブを着た若い一人の女と話していた。髪はポニーテールに結ばれ、そのため顔はさらけ出されていた。特にかわいいというわけではなかった。スリッパをつっかけ、私はスリッパに隠れていない裸のつま先とくるぶしを見た。
「彼女がモデル?」と時田にささやいた。
「二、三回描いたよ。ましな方だ。」と時田は軽く答えた。
私の心臓は期待で高鳴り出した。数分後には着物を着ていない彼女を見られるのだ。私は時田にトイレはどこかと聞き、彼はあごでスタジオの後ろの方を指した。緊張すると私はトイレに駆け込まなければならなかった、まるで子犬のように。
「席を取ったほうが良いな。」と私が戻ると時田が言った。
「後ろの方に座れる?舞台近くはいやだな。」と私が言った。時田は流し目の類の変な表情で私を見、首を振ってクスクス笑った。
「さあ、はじめましょう」ベレー帽を傾げて被った男が言った。
集まった人々は分かれて舞台を取り巻く席に着いた。若いモデルは煙草を消して立った。そして、ローブを椅子にかけた。私はびっくりした。彼女は素裸だったのだ。どういうわけか、私は彼女が下着から順番に脱ぐのだと期待していた。しかし始めから裸で何よりも落ち着いていた。モデルはスリッパを振り脱いで、舞台に上がった。モデルは手を尻に当て、足を少し離し、見た目少し頭をまわし、真直ぐにじっと見つめた。腋毛はきれいに剃られてまるで洋画の中の女の様だった。モデルが考えていることを伝えるのは不可能で、おまけに私は自分の考えで忙しかった。私の後ろのダルマストーブが口の開いているカマドのように熱く感じた。大きなスケッチブックを持ってきてよかった。股間をそれで隠せたからだ。
「どこかに座って描き始めろ。」時田がひそひそと言った。
時田が平然としているのが信じられなかった。まず、メガネをゆっくりと拭き、煙草の箱から一本抜き出し、画板でとんとんと打った。彼はいつも煙草をとんとんとするが、今度だけは私の神経を逆撫でし、私はヤツの脛を蹴飛ばしたくなった。とうとう彼はスケッチブックを開き、描き始めた。自分自身モデルを見ることができず、それで時田がどうしているかを見ていたのだ。時田は紙の上にモデルの頭を描いた。私も同じようにした。大馬鹿者のように振舞っているのは知っているが、どうしようもない。温泉の類か、そんな公衆浴場で、私は裸の女を見たことはある。そこでは皆裸だった。しかし、これは違う。時田が何と言おうと成熟した裸の女を舞台の上に見ることは自然ではなかった。興奮した。私はたぶん、自分のアトリエにモデルを置けるような画家になったのだと思い込み出したのだった。考えは私の耳を熱くした。集まりの中にただ一人、刺し通すような目と、髪を後ろに束ねていることで鷹のように見える40代の女性がいた。私が彼女は裸のモデルを見てどう感じているのかと思ったとたんに、彼女がモデルにポーズを保つように怒鳴った。荒っぽい声でその荒さが私を驚かせた。彼女はまるで馬を描いているとでも思った人もいるのではなかろうか。
 休憩の間、モデルはみんなの絵を見て回っていた。人々が彼女をどう見ているか知るのは奇妙な体験だったに違いない。私は自分の写生帳は扉を閉じてしっかりと膝にはさんでいた。しかし、時田は自分の絵を椅子の所に放っておいて、悠々としていて、実際誰もがそれを見ていた。私は彼の絵が一番だと認めており、彼もそれを知っていた。
「どんな具合かね?」時田が私に聞いてきた。
彼は天狗になっていたが、私は質問を彼にするにはイライラしすぎていた。
「モデルの手や足を描こうとするな。顔も忘れろ。輪郭と質感だけを考えろ。」と時田は教えてくれた。
 彼はまるで家か自動車を描いているかのような口ぶりだった。この描画教室のあとでは、私は動揺せずにモデルを眺めることができるようになった。最後の三十分間、モデルは五分づつポーズを変え、私たちは素早く描かなければならなかった。私はモデルの手
やつま先どころではなく、必死になって描いた。これまでこんな激しく描いたことはなく、スタジオを離れる時にはひどく疲れていた。列車から渋谷駅に降りた時十時半で、そこから私はバスで家に帰るのだった。まだネオンが赤々と点き、道路はタクシーで溢れ、人々は遅い時刻であることを知らないように見えた。東京はほとんど眠ることがなく、それが、私がこの街が好きであった一つの理由であった。
「コーヒーでも飲むかい?」と時田が聞いた。
「もう遅いよ。そしてコーヒーを飲むと眠れないし。」と私。
「じゃあお茶でも何でも」
「いいよ」と私はしぶしぶと答えた。私たちは大学生や酔っ払い、夜遅くの買い物客、手に手をとった恋人たちの間を歩いた。
 突然私は自分が女性を今まで見たことがない見方で見ていることに気がついた。可愛い顔は、特に目は私を引き付けたが、それはそれだけだった。ところが、今夜はひと目盗み見るだけで、着物やスカートやブラウスに隠された胸や尻や太ももがわかってしまうのだ。私は内側が熱く感じた。
「見ろよ」時田が言って腕をつかんだ。
時田は私を抜き身のナイフや短剣がたくさん置かれている店の飾り窓に連れて行った。彼は骨の柄の長い飛び出しナイフを指差した。
「こんなの見たことある?」時田は私に聞いた。
 私は頭を横に振った。
「ほんとに役に立つぜ。大阪時代に友達が一つ持っていたんだ。入って触ってみようぜ。」
「もう店はしまる時間だよ。」「ちょっとだけだ。いつも見たいと思ってたんだ。」と言って、中に入った。
  店の中はガランとして、端の方にくたびれた店員が一人座っていた。壁の二面が色々な大きさのナイフやハサミ、剃刀で飾られていた。時田は髭剃り道具を見るふりをしていたが、彼の髭は週に二回も剃れば十分過ぎた。
「何かお探しですか?」店員が丁寧に尋ねた。
「初心者にはどんな剃刀がいいですか?」と時田は聞いた。
「はい、もちろん輸入物はとても優れておりますが、お高くもあります。国産物で悪くないものもございます。お見受けした所、毎日剃る必要はないようなので。」そう店員は言って、カウンターの下から数本の剃刀を出して見せた。時田は一本を取り、長い刃を出し、舌に当てた。
「何やってんだ?」びっくりして私がいった。
「これは刃の鋭さを確かめるやり方さ。ほんとに鋭かったら酸っぱい味がするんだ。そうですよね?」
「そのようにされております、でも私としては少し危険だと。」店員はそう言って、彼は頭から髪の毛を一本抜くと、それを剃刀で切った。
「これは本当に切れるね。けれど、まだ今は僕の安全剃刀を使うことにしよう。父さんが僕が髭を剃り始めた時にくれたんだ、剃刀部分が可動式なんだ。あれはドイツ製だと思うな。」
「それはようございます。それは戦前のものでこれからは見られない製品です。本当の宝物をお持ちで。」
 時田の発言にはびっくりした。彼が父親をじじいとか父ちゃんでなく、「父さん」と呼んだのを聞いたのははじめてだった。
「ところで、ショーウインドゥの飛び出しナイフが目についたんですが、見せてもらえますか?」
時田はついに思い切って言った。
「もちろんですとも。たいへんおもしろいもので。」と店員は細い鞘に入ったナイフを取り出した。
時田は右手にナイフを持って、親指で留め金を操作した。時田はナイフをあちこち回し、6インチのナイフについた骨の柄の滑らかさを誉めた。突然時田は留め金を押し、たちまち細い刃を飛び出させた。そしてカチッという音と共にそれを固定した。私はまるで銃で撃たれたかのように、無意識ながらたじろいでしまった。鋭い刃は外科医の道具のように、冷たく恐ろしげだった。それは古典的な短剣の美はまったく持っていなかった。私は刃を何度も出したり、折りたたんだりしている時の時田の目に興奮を見て取った。
「お客様は一度で刃の固定方式をお分かりになった。とてもすばらしい安全装置です。」と店員は指摘した。
「こんなナイフはいくらぐらいですか?」時田が聞いた。
「それは3000円です。格安品です。しかし、もう夜遅いし、お客様が最後のお客様になりますから、200円おまけしましょう。」
「400円まけて。」「うーん、一割引でいかがですか?2700円。」
「今お金がないよ。でも二三日中に持ってくる。取っといてくれますか?」
「どういたしましょうか。お金をお持ちになれば、これはお客様のものになります。」
「値引きのこと忘れないで下さいよ。」
「ご心配なく、値引きは値引きでございます。」店員は請合って、ナイフをしまいこんだ。
私たちが店を出る時、時田の顔が少し赤らんでいるように思えた。
「ナイフ取りにいかないんじゃないか?」私は尋ねた。「もちろんさ。ちゃんと動くか見てみたかっただけさ。だけど美しかった。」
「どうかな、あんまりだと思うよ。安物の鉄でできてるみたいだし。ちょっとしたらきっと飛び出させるバネが壊れるよ。」
「けど、速いし小さいし軽い。ポケットに入れて持ち運んでるなんて誰も思わない。ケンカの時、ごそごそ探さなくても、ヒュっと出せるぜ。ケンカになった時、眼鏡のガラスで顔をやられるから、眼鏡ははずそうと思った。相手がナイフを持ってたらどうする?」
「君はナイフを持ち歩かないんじゃないのか?」
「僕はナイフが好きなんだと思う。ナイフを一本持ってたら、気分がいいと思うな。」
「バカげてる。武器なんか持ったら遅かれ早かれそれを使ってしまう。」
「ご心配なく。それを見たいだけで、忘れちまうさ。」
どういうわけか不安だった。時田がこんな興奮をしているのを見たことがなく、彼のギラギラした目は私を恐れさせた。私たちはカフェに入って飲み物を注文した。
「あんな安売りのことなんて、どこで知ったの?」と私は聞いた。
「あんなって?」「店員に300円安くしろといったろう。」
「それね。安くさせるべきなんだ。店員のいうままに払うなんて絶対してはいけない。そんなことをしたら馬鹿だよ。どんなものでも2,30パーセント高く価格をつけられているんだぜ。」
「今夜、どうして指導者がいなかったんだい?」ナイフのことを話していたくなかったので別のことを聞いた。
「何のこといってるんだよ?」彼は怒りっぽくいった。
「誰も僕らにどう描くのか教えに来なかった。」
「スタジオの先生様の事を言ってるのかい。」時田は皮肉に言った。
「奴は月に一度くらいまわってくるさ。君の後ろに歩いてくる、ほとんど奴は何もいわない。奴が気取って歩き回ったりして君は奴が小さな神さまか何かかと思うかもしれない。ある時、奴は『五年』とか言って、行っちまう。それはほめ言葉なのかと思わせる。
それは奴が次に君と話すのは五年後だと約束した意味なんだ。誰がいるんだ?先生と話せ、先生が最高だ。」
「何か良いことあるの?今夜描いていた人たち。」
「奴らはみんなシロウトさ、何をすべきかを知らない。学生服を着た奴がいる、上野の入学試験に三年も失敗してる奴だ。ほとんど四年も美術学校に入ろうとするようなバカが想像できるか?奴が出世するなんてことは金輪際あり得ないと知るべきだ。学校なんぞいずれ時間の無駄だ。あそこに来ている奴らは一週間に二度、モデルに色目を使いに来ている奴らばかりさ。」
「それからあの女性は?不思議な髪形をしたあの女の人は誰?」
「彼女は踊り子さ。体についてもっと知りたがっている。彼女は、自分が芸術家だと見せたくて、手に絵具をつけて歩き回るのが好きなんだ。」
「君は心をいれかえて、画家になろうなんて思わないかい?」
「そうは思わないね。僕にとっては漫画さ。何故そんなことを聞く?君は画家になりたいと思ってるのかい?」
「わからない。でも油絵を習いたいなあ。今晩行ったような、自分のアトリエを持ちたいと思わないかい?」
「そしたら、そこに裸のモデルもいるんだろ?なんで描くことを学ぶのが第一じゃないんだ?」時田は冷笑して、空になった煙草の箱をつぶした。
「まだ開いている店を知らないか?」と時田がいった。
「まだばかげたナイフのことを考えてるんだろ?おもしろいね。ここを出よう。」私はやり返した。
 駅でおやすみを言って、それぞれの帰路についた。私は時田が隠し事をしているような気がしてならなかった。そしてそれはあの飛び出しナイフを買う金を彼は持っていて、別れてからそれを買いに行くのだということだった。

(訳堀田穣)
The Ink-Keeper's Apprentice
Allen Say
Houghton Mifflin, 1994

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