無料ブログはココログ

イーココロ

« 漫画家の弟子 第7章 | トップページ | 『久野梓遺稿集』 »

2007年3月15日 (木)

漫画家の弟子 第8章

「目を使え」先生は私のヌード画を見ていった。
「それから頭、手。君はまだ手を使っているだけだ。」
「はい先生」「見ているものに注意を払え。集中しろ。モデルを見て、それから手元の絵を見、君の頭の中にある絵が紙の上にどんな風に定着していくかイメージするんだ。そしてまず頭を描く。それで彼女の体の収めどころを決められる。」
「手や足はどうするんですか、先生。描くのがとても難しいんですが。」
「さしあたって、大きな形だけ考えろ。人体は大きな形が連なってできていると考えろ。頭、胴、尻、大腿部。彼女をレンガででもできているように見るんだ。」
「なぜ、最初にヌードを描かなくちゃいけないんでしょう?」
「なぜなら、人体は描くのに最も美しいものだから。漫画は人物を多く描く、そしてそれは解剖学的に不正確な人物を描いていいわけがないんだ。漫画家は画家であるに劣らず、良い製図家でなくてはならない。そしていつか、君が挿絵画家や画家になろうと決心しないとも限らない。描くことはボクが君に教えられるもっとも大切なことだと思う。いずれそのうち、君を人体がどんな風に組み立てられているか理解するために、君たち二人を死体解剖見学に行かせるつもりだ。」
「失神しかけたら助けてくれよな、キヨイ。」と時田。
「先生は死体解剖を見たことがあるんですか?」
「学校の必修科目だった。」「美術学校に行っておられたことがあるんですか?」時田は驚いたようにたずねた。
「あの有名な上野美術学校で、懸命に勉強したさ。4年間学校にいて、世界が一塊の狂った心で走らされていることを知った。政治漫画がボクを狂気から救ったともいえる。」
だから、先生は画家になろうと修行したんだ、そして上野美術学校こそ日本の本当の美術の学校だったんだ。私は感動した。
「どれだけ練習したら手や足が描けるようになるでしょう、先生。」
「キヨイ、それは間違っている。描くことは練習ではない。描くたびに何かを発見するんだ。描くことは発見することだ。憶えておきなさい。」
「はい、先生。」
それから時田と私は肩を並べて、いっしょに描写をした。時田と私はミロのビーナスを長い木炭と消しゴム代わりのパンで描いた。これまで木炭は使ったことがなかったし、これほど厳しい作業ははじめてだった。
  はじめの幾つかの絵は、アフリカ黒人の風刺漫画のようになってしまい、ひとつは男か女かもわからないものになってしまった。しかし、時田は木炭を使い慣れており、とてもうまかった。彼の絵は白くて固い石膏に見えた。時田がどうして薄い灰色の調子を出せるのか分からず、またそれを尋ねられなかった。時田の傍にいない時はしばしば、先生は私の肩越しに覗き込んでいった。
「塑像を見るんだ。なんか黒いものが見えるか?」
私は先生がひどく嫌になり、一人離れた部屋で描きたかった。そこで私は時田の後ろに座って、彼が描くのを長い間眺めてみた。彼は平気だった。塑像は純白で、紙も白かった。そして時田は黒一色の木炭を使って、二つの白、塑像の白と紙の白を描いていった。
私ははじめ感覚を重視しなかった。時田の描いたもっとも明るい影も、塑像のもっとも暗い影よりまだ暗かった。そしてそれでも時田の絵はリアルに立体的に見えたのだ。時田は錯覚を創り出しているのだとわかった。これは大きな発見だった。
*    * *
母親は一ヶ月に一度の週末に東京に来た。母はいつもお土産を持ってきた。そして祖母は母にまるで家政婦のように大騒ぎをしてもてなした。それはかつて母に対しておこなった仕打ちを償うためのように思えた。いつも一ヶ月の別離の後だから、話さなければならないたくさんのことがあったのだが、私たちの会話は、ちょっとしたことや噂話がほとんどだった。私は母に先生のことを語る時を待っていたが、祖母がいつも背後に控えていて、二人きりになる機会を与えようとしなかった。
  結局私は横浜のおしゃれな商店街にある母の店を訪れることにした。それは後ろに窓のない狭い事務室と保管庫のある、鏡の壁と三つのガラスのカウンターを持つ小さな店だった。そこに入っていくのは女性の使う、白粉や香水やコールドクリームや爪磨きなどの香りのかたまりの中に入っていくことだった。母の店の二人の店員の少女は私にニッコリと微笑みかけてきた。一人の店員はかわいく、視線が合って私をまごつかせた。どうしてよいのかわからなかった。
「お母さまがお待ちですか?」
店員が小声でたずねたので、私はうなずいた。店員が母に雇われているということが本当だというのは奇妙な感じだった。おかまいなくと不器用に店員に手を振って、私は事務室のドアをノックした。
「お入り」と母親の声がした。
母はこざっぱりとしたデスクで台帳を開いていた。台帳の上に算盤が乗っていた。母は私を見上げると笑いかけた。
「コウイチ、驚いたわ。」
母は振り返って回転椅子を探し、正面の空の椅子にすわるよう促した。私はまるで仕事の話をする人のようだと思いながら、椅子に座った。
「ほんとにステキなびっくりだわ。」と母はまた言った。
「手紙を先ず書こうと思ってたんです。」と私。
「なにかあったの?」
「いえ、来てお目にかかろうと考えました。」
「うれしい。こんな訪問は大歓迎だわ。お昼は食べた?」私は首を横に振った。
「この仕事を終らせてどこかへ食べに行きましょう。コーヒーは飲む?マリさんに一杯持ってきてもらえるわよ。」
「いいえ、いりません。」
 マリコは可愛い方の店員だ。私たちは祖母の家ではいつもお茶を飲んだが、母は強いコーヒーを好んだ。母は細かい目の薄紫のセーターに、明るい模様の絹のスカーフを巻き、真珠のついたピンで留めていた。口紅は深い色で、爪もマニキュアされていた。祖母は化粧品を好かず、東京では母は派手な服や化粧はしなかった。母の後ろの壁にずいぶん前に九州で撮った私の写真が掛けられていた。父はこの写真をアルバムに貼っていたが、母がこのように写真を掛けているのを知ってうれしかった。母の指は素早く算盤をはじき、つけペンで台帳に記入した。10分ほどで母の仕事は終った。母はにっこりと笑った。
「あなたの好きなものをおごらせてね。酢豚がいい?あなたは気難しかったけど、あれだけはきらいじゃなかったわね。お婆様は元気?」
「元気です。」
母が古い金庫からお金を出すために部屋の隅に行った時、母のツィードのスカートに気がついた。これまでそんな服を着ていたことはなく、とても優雅に見えた。母はマリコに小一時間ほど出かけると告げ、私たちは午後のにぎやかな通りに出た。私は母より頭だけ高く、歩道をいっしょに歩くと母の香水が香った。母は近所で皆に知られており、時々誰かが挨拶をするのだった。一度など、同じ区画の店主が、私を母の弟かと思ったと母に伝え、それを母が笑っていた。私たちは二区画を下がった所にある中華料理店に行った。
「いつものにする?」
母はハンドバックから煙草の箱を取り出しながら尋ねた。私はうなずいて、マッチを擦って母の煙草に火をつけた。祖母の前で母がしないことのもう一つが喫煙だった。母は女給仕に、酢豚、揚げワンタン、青菜などの注文を告げ、私に聞いた。
「そして、どんなお話なの?あなたが挨拶だけしに来たのじゃないのはわかってます。」
「私は母さんとお話したかったのですが、お祖母さんの前ではなくお話ししたかったのです。」
「話して。」「野呂新平という人をご存知ですか?」
「変な名前。前に聞いたことがあると思うわ。」
「漫画家です。」
「思い出したわ。あなた、その方の本を持ってなかった?」
「はい。野呂さんは私の先生です。」
「どういう意味?あなたの学校で漫画家さんが教えてるの?」
「いいえ、母さん、野呂さんは有名な漫画家です。私は彼の所に行って、生徒にしてくれるかと尋ねました。野呂先生は良しと言いました。」
「あなた、いきなり会いに行ったの?」
「はい、ご存知の通り、昨年野呂先生は弟子を取ったんです。そのことを新聞で読んだので、私も取ってくれるのではないかと考えたんです。母さんに何も事前にお話しなかったのは、先生が弟子にしてくれるというかどうかわからなかったからです。」
「それで授業料は?」「いいえ、授業料はいらないんです。先生は私の描き方の技量を試し、私は及第しました。それがすべてです。授業料のことなんか口に出したら先生は私を放り出すといいます。先生の所で学ぶことを許してくれますか?」
「うーん、あなたはすでに自分で考えてやってるわね、そうでしょ。あなたにとって描くことがどんなに大切かは知っているわ、でもコウイチ、学校のこと。学校の勉強はどうしていくつもりなの?」
「お母さん、勉強をしっかりすると約束します。もし成績が落ちたら、また良くなるまで先生には会わないと約束します。」
「もっと先生のことを教えて。」
 私は母に野呂先生のことをすべて話した。そして、時田がヤクザから足を洗ったことなども話した。彼は天才だともいった。それらで、一番母を喜ばせたように見えたのは、野呂先生が妻と、二人の子どもの家族もちであるということだった。
「野呂先生の奥様は香水をお使いかしら?」と母が聞く。
「知りません。でもお歳暮なんかにはいいかもしれません。」と私は上手くことが運びそうに感じながら言った。
「先生はあなたやお友達のような若い人と話すのにとても非凡な方ね。あなたのことをとてもよく考えて下さっている。うれしいわ。」「先生に学ぶのを許してくれますか?」
「できるだけ約束を守ってね、だめなわけないわ。」
「母さんはほんとに僕が漫画家になってもかまわないの?」
「コウイチ、私はあなたが幼かった頃、いつも心配していたわ。あなたはいつも見えなくなって、家からずいぶん遠くまで走っていってしまうし、それに海岸に近かったからね。私はいつもあなたが溺れ死ぬか、階段から落ちるか、ひき殺されるかと心配していた。そして戦争が始まった。私たちは生き残ったわ。それで、私はたいてい生き残れると知った。戦争は私に、起ることはどうあろうと起るということを教えてくれた。コウイチ、これ以上心配しないわ。生きているだけでありがたいと思う。そしてもし芸術家になりたいなら、芸術を学ばなければならない。あなたは歩くのを覚える前に絵を描いていた、私がそれを変えようという理由はないわ。」
「お祖母さんはどうですか?漫画家を尊敬できるとは考えていないことは、分かっています。」と私。
「祖母は侍の家筋です。ちょっと古いけれど祖母にとっては大切なの。どちらにしてもあなたはたった一人の孫です。祖母にあまりつらく当たらないで。」
「お祖母さんに話しますか?」
「ええ、うまく言っておくわ。ご飯食べなさい。」
母は私の未来よりも食の細いことに関心を示し、私は病気をしたという知らせが母に伝わるのではないかという不安を持ったことがあった。父だったら同じ状況の時何と言ったろう?父を相手にするのでなくてよかったと思った。昼食が終ると母は女給にお金を払い、私にもいくらかお金をくれた。祖母が毎月の生活費をくれる時はいつも、事務的だったが、母からもらうと、私はまるでまた小さい子どもになったようで、ポケットにお金を入れて走り出て、好きなものを買いに走り出るような気になった。私は母の店に戻らず、路面電車の駅の前で彼女にさよならをいった。母は、野呂先生によろしくといった。母は祖母の周りにいる時より美しく見えた。母に求婚する人がいるのかわからない。どんな人が母にふさわしいのか想像できなかった。

(訳堀田穣)
The Ink-Keeper's Apprentice
Allen Say
Houghton Mifflin, 1994

« 漫画家の弟子 第7章 | トップページ | 『久野梓遺稿集』 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/155862/5695192

この記事へのトラックバック一覧です: 漫画家の弟子 第8章:

» 『漫画家の弟子 第8章』 [What's new]
英訳が下手なのは、日本語が下手なのだということがよくわかる。 [続きを読む]

« 漫画家の弟子 第7章 | トップページ | 『久野梓遺稿集』 »

最近のコメント

2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31