無料ブログはココログ

イーココロ

« 『熱帯生活問題』 | トップページ | 書評 マーガレット・リード・マクドナルド著 末吉正子・末吉優香里訳『ストーリーテリング入門―お話を学ぶ・語る・伝える―』一声社、2006、422P »

2007年4月 2日 (月)

漫画家の弟子 第9章

 結局、とてもいい時に母に会いにいったのであった。次の週、加藤記者は写真家をつれて宿に来た。編集長が先生の特集記事に、何枚か写真を使うことにしたのだった。先生は承知し、時田と私も写真に入れることを主張した。
「僕はいやだ。」と時田。先生はおだてて「さあ、有名になれるぞ、ファンから手紙が来る。友達も戻ってくる。」
「ひげそらなきゃ。」あごをなでて時田がいった。
「だめだよ、また血だらけになるぞ。」と私。
時田の困りようは、私を楽しませた。けれど、私たちはどっちもどっちだった。私は櫛を取り出し、鏡を見ずに髪をとかした。写真家が準備を始めると、私は神経質になり、便所に行きたくなった。先生も後から便所に入ってきて私の隣に立った。視界の隅で、先生の口に新しく火をつけた煙草がくわえられているのが見えた。私たちは窓の狭い隙間から、緑の湿った庭園を水平に巻き上げるように眺めた。宿の建物の影の、庭石の苔はひときわ緑色だった。
「キヨイ、韓国へ行ったことあるかい?」先生は庭をじっと見つめながら言った。
「いいえ、先生」「朝に鮮やかな国、向こうの人々はそう呼ぶ、美しい国だ。詩人の国だ。」
私は黙っていた。「誰かと話したくなったら、ためらわず何時でもやっておいで。何もすることがない夜は、私たちの所に来て、居ていいんだ。」
「ありがとうございます、先生」
時田が先生に、私の父のことなど、私が独りで生きていることを話したに違いない。私は涙が溢れてくるのを感じた。先生は私の前に、出て行った、煙草の煙の筋を残し、私の目は見ずに、何も言わずに。
 三脚の上に蛇腹カメラを据えて、写真家はせかせかと仕事机の周りを歩き回って、インク壷やブラシを動かしたり、気に食わないものを取り除けたり、特集がのる雑誌の最新号を、その名前がはっきり写るように置いたりした。それから写真家は、先生の着物の襟がまっすぐになるように、私たちを机に座らせた。しっかり準備を整えてから、写真家は閃光板に粉を入れて目も眩むような閃光を9回も光らせた。
「なんでそんなにたくさん撮るんだ?」と時田は弱い目をしょぼつかせながら聞いた。
「これで、少なくともいい写真が一枚は撮れてます。」と写真家は答えた。
「余分があるなら、何枚か欲しいな。」と先生。
「はい、もちろん、皆さんの分は十分あります。今度はフラッシュなしで外で何枚か撮りたいんです、これは先生だけでお願いします。」
「ほんとに僕らの写真使うんですか?」と私は加藤記者に聞いた。
「うーん、ともかく先生の写真を何枚か撮るのが僕の仕事さ。けど、編集長は君ら若い衆には会ってない。僕が君らをいれるという素晴らしいアイデアを付け加えなければ。有名な漫画家と二人の弟子。こんな筋書きは聞いたことないだろ。僕が自分自身で考えたんだったらなあ。編集長にはこのひらめきは僕が、と言っておこう。」
「漫画家になりたいそこら中の若いもんが押し寄せてくるのを、請合うよ。」
時田が冷笑した。
「君の親父が君の写真を見るのが楽しみだ。」私は時田に調子をあわせた。
「ほんとにね、諸君、一夜明けて君らは有名になるんだ、いやもうなったも同然だ。しかし、より大事なのはこの記事が僕の昇進を確実にするはずだ、もしそうなったら君らに映画を驕るよ、約束する。いや、先生も一緒にレストランか。」と加藤記者。
時田はいつものクールさで、少なくとも全国流通の雑誌に掲載されてどう見えるかなどということには無関心なように見えた。しかし、私は自分の興奮を隠すのは難しかった。もっと笑えばよかったのか、もっと真面目な顔がよかったか。多分笑っていたが、思い出せなかった。
 記事が出来てくるまで少なくとも一ヶ月はかかるだろうと思っていたが、加藤記者は二週間もたたないうちに戻って来た。加藤がカバンから新しい雑誌の束を出す時、いつになくいい感じだった。それを出して、加藤はすぐ自慢げに語った。時田と私は敢て雑誌を取ろうとしなかったが、心配そうに先生がページをめくっているのを見ていた。そして雑誌には私たち三人がページ全面の写真に写っていた。先生はいつもより真面目そうに、時田は微笑みと冷笑の間のように口をゆがめてカメラに収まっていた。私はどうかと、秘かにしげしげと見た。私はカメラに最も近く、他の二人より大きく写っていた。そしてレンズの歪みのせいで机の下からはみだした私の手と片方の足がとんでもなく巨大に見えた。馬鹿の様な歯のむき出し方をしてなければいいが、と思っていたが、親しみやすく写っていたのでとてもよかった。私は時田よりも年上に見えた。
「いい写真じゃないですか。」と加藤記者がいった。
先生も「本当だ。歴史的なできごとだ。時田の顔写真なんて注目すべきだね。まあ、浮浪者三人組だね。後世の為に五枚焼き増ししよう。」
「どうか、写真に付いた記事にもご注目を。」と加藤。
「ご存知のように、これは僕の文芸的なデビューでして、お約束通りみなさんを夕食にご招待しますよ。」
加藤記者は時田と私にニヤリとした。写真に添えられた短い記事はほとんどが先生についてのもので、一つが時田と私についての推薦文だった。加藤記者は、この雑誌は一週間以内に全国に配給されると言った。
 そんな夕、私は祖母に会いに行った。私は母が先生のことを祖母に伝えていたことを知っていたが、まだそれから祖母には会っていなかった。だから祖母が私を出迎えた時どう対応すればわからなかった。私の訪問は祖母を驚かせたが、祖母の反応の前に私は雑
誌を手渡した。祖母は縁無し眼鏡をかけ、雑誌を手に取り、私を写真の中に見つけると驚いて口をあんぐりとあいた。
「はああ」と祖母は少し大きな声を出した。
祖母は表紙と裏表紙を調べ、厚い雑誌の背を調べ、まるでほんとかしらと疑っているようで、それからまた写真に戻ってそれをじっと見た。
「それが先生。」祖母が私の写真だけじっと見ているのに気がつき、私は野呂先生を示した。
「ハンサムではありませんが、品格があります。漫画家というより作家のようです。」
と言って祖母を見た。「それでこのにきび面が、大阪から来た子かえ?」
「はい、時田です。私より三つ上です。」
「緊張一杯だけど、かしこそうだねえ。教育を受けたらいい顔になるよ。」
 祖母はまた私を見た。
「お祖父さまを憶えておいでか?」
「少し、背が高かったでしょう?」
「とても高かった。お前はそっくりだよ。お祖父さまは 若い時はとても男前だった。」
祖母は雑誌を私に手渡した。「記事を読んでおくれ。」
祖母は目を閉じて聞いた。私は時田と私についての記事を、私の名前は先生の呼び方で声を出して読んだ。
「『この特集で有名な漫画家、野呂新平と素質ある助手の時田けんじとキヨイコウイチを読者に紹介いたします。左が時田、大阪生まれ16歳。彼はすでに先生の下で一年学んでいます。最前列のキヨイは13歳の中学生。横浜生まれで今は東京の青山中学校に行っています。この若者たちはこれまでは公には知られていなかったけれど、先生は若者たちの仕事ぶりをかねてからよく知っていました。それで時田とキヨイは野呂新平の連載のすべての背景を、素晴らしく描く仕事を任されているのです。何年かしたら読者が、この二人の漫画を楽しく読み続けることができるのは疑いがありません。』」
祖母は座って、目を閉じたままだった。私は祖母が眠ってしまったのかと思ったが、その唇が動いているのに気がついた。祖母は微笑を顔に出すまいと努力しているように見えた。
祖母はためらいながら「コウイチ、どこでこの雑誌が買える?」と聞いた。
「これはお祖母様のために買ってきたんです。」
「私は自分のを買いたいんだよ。」
「お祖母様、そんな。野呂先生は私に特別な分を持たせて下さったので、それがお祖母様のです。もし買おうとなさっても、もう少し先にならないと出版されません。」
「ありがとうよ」と祖母が言った。
記事は学校にも大騒動を巻き起こした。これまで挨拶されたことのなかった上級生や教師にまで廊下で挨拶された。私は有名人だった。
 美術講師の先生が「あなたは素晴らしいといつも思ってたわ。私をあなたの野呂先生と比べたいの?さあ、美術室の鍵がここにあるから、放課後いつでも好きなように使いなさい。もう、私の手を離れたの。とてもじゃないけどあなたに美術を教えるなんてできない。」
「でも、油絵のことは知りません。」私はそう抗議した。
「ばかばかしい。ほんとに野呂新平の弟子ね!」
 美術講師の先生はいつも私に優しかった。彼女は私の作品のすべてにAをつけてくれ、この学校で私が親密なただ一人の教師だった。しかし私の新しい名声も、級友たちとの関係改善には役立たなかった。私は決して他の生徒たちに好かれなかったし、友達を作るために自分のやり方を変えるなどということはできなかった。だから雑誌の出た日、級友の一人が私に接近して来たのを妙に思った。その級友について知っているのは、両親と死別し、私のクラスではもっとも頭の良い生徒だということくらいだった。
 その生徒、森が声をかけた。「おい、ちょっとまて。セイ。駅までいっしょに歩こう。漫画を習おうとどうして決めたんだい?」
「学校が嫌いだから。」
「そりゃそうさ、学校は退屈だ。大学までがまんなんてできない。それより、君の師匠について教えてくれ。ノロシンペイなんて不思議な筆名じゃないか?」
「先生は戦争中、政治漫画家だったんだ。ほとんどの人はそれを知らない。先生は戦争に抗した。それがどんなことかわかるかい?地下に潜ったんだ。先生は軍国主義体制をあざ笑うため、軍隊には決して協力しないことの表明のために、その時に筆名を考えたと思う。」
「あの頃にすれば勇気のいることだったね。彼は共産主義者なのかい?」
「聞いたことがないな。そうじゃないだろう。政治漫画家が既成政党から学ぶことがあるとは思えない。政治漫画家の仕事はそういう既成政党を等しく風刺することだと思わないか?」
「たとえそうでも、みんなは共産主義者だと見ているよ。でも、君は正しいと思う。野呂新平は変人かい?」
「深い人だ。」
「愛人はどのくらいいる?」
「知らない」「言えよ、セイ。芸術家は愛人がいるものだ。そこから霊感を得るんだから、みんな知ってるよ。」
「うーん、愛人がいるとしても僕は会ったことがない。野呂先生の奥さんはいい人だ。」「奥さんなんてみんないるんだから、そんなことは問題じゃない。それじゃ、先生の所にいる時、君は何をしてるんだい?」
「描いてるさ、ほとんど。」
「おかしな顔は?漫画を習ってるんじゃないのか?」
「君はすぐに家を出て漫画を描くことなんてできないだろう?画家と同じ種類の修行を通り抜けなくちゃならないのさ。」
「厳しい訓練みたいだね。ヌードはどうなの?ヌードを描いたことあるの?」
「あるさ。猪熊スタジオに週に二回通ってる。」
「あのヌードモデルでいつも疑問があるんだ。剃ってるの。つまり、陰毛を。」
「もちろん、剃ってないよ。」
「うらやましいな。」「誰だってヌードぐらい描くのに参加できるよ。」
「そうじゃなくて。自分の将来のことなんだ。君に比べると僕はつまらない。」
「なんで?」「経済学を学んでいる。お金持ちになりたいんだ。両親は僕に多くの遺産を残さなかった。実際、僕はお金持ちの叔父の養子になった。でも、それは僕が自分のお金を持っていることじゃない。僕がほんとにしたいのは歴史の勉強だ、でも歴史のクラスで何とかなるのかい?僕は百万長者になりたい、それを実現するつもりだ。」森は言って、こちらの考えを読み取るぞとばかり、私を見た。
 私たちは駅前の広場まで来ていた、そして私は自分の乗るバスを探すように見渡した。
「いつか日曜の朝、映画に行くというのはどうだい?いい席をとれるんだ。コーヒーは好きかい?」と森。
「好きさ」
「よし、いい所を知っている。ヌードの絵を持って来いよ。ところで、君に興味を持っている女の子を知ってる。次会う時にその子のことを教えてやるよ。」と森はバスに乗る前に言った。
 森から百万長者になりたいと聞かされた時は変な感じがした、良家の子どもはお金のことについて口に出さないようにしつけられていたからだ。森のことは私を何か不安にさせるものだった。たぶん、あんまり近くに森の鋭い目があったからだろう。森からは、他の生徒より彼はずっとこの世界について解っているという印象を受けた。けれど、とにかく私は森とコーヒーを飲もうと決めた……私に関心を持っている女の子のことが知りたかったのである。

(訳堀田穣)
The Ink-Keeper's Apprentice
Allen Say
Houghton Mifflin, 1994

« 『熱帯生活問題』 | トップページ | 書評 マーガレット・リード・マクドナルド著 末吉正子・末吉優香里訳『ストーリーテリング入門―お話を学ぶ・語る・伝える―』一声社、2006、422P »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/155862/5948878

この記事へのトラックバック一覧です: 漫画家の弟子 第9章:

» 漫画家の弟子 第9章 [What's new]
アレン・セイの『漫画家の弟子』第9章をアップ。半月でできた。おもしろくなって早く [続きを読む]

« 『熱帯生活問題』 | トップページ | 書評 マーガレット・リード・マクドナルド著 末吉正子・末吉優香里訳『ストーリーテリング入門―お話を学ぶ・語る・伝える―』一声社、2006、422P »

最近のコメント

2013年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31