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イーココロ

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2008年6月 4日 (水)

漫画家の弟子 第11章

 その夜、家に帰ったのはまだ早かった。着替えを取ってから風呂屋に行ってきたのだった。帰ってきた時、隣の窓に明かりが点っていた。
  私は扉を叩いた。
「お入り」と久保田さんが言った。
扉は鍵がかかっておらず、私は入った。久保田さんのような空手家に鍵は必要ないのだ。
「セイさん!さあ座って。これすぐ済ましてしまうから。」 久保田さんは洗い桶の中の靴下とシャツをすすぎながら言った。
「お邪魔でしたか?」と私は儀礼的に聞いた。
「全然。いい時に来たよ。金持ちのおばから借金ができて、酒屋への払いができたんだ。だから信用回復さ。ビールと赤いやつが向こうに買ってある。入ってビールを開けよう、うまくて冷たいぞ。」
二本の冷えて水滴のついたビールの瓶と、ポートワインが一本、机にあった。余白に鉛筆で書き込みのある本が卓灯の下に開いて置かれており、その横にはまるで針のように先端を尖らせた3本の鉛筆が、医者の机の手術用具のように並んでいた。そこには何かしら人をいらいらさせる潔癖さがあった。時田がぶち壊したがる整然さである。
  私はビールを湯飲みに注ぎすすった。この苦味が好きになり始めていた。
「この湿気で同じシャツは二度着られないだろう。妻を娶るかどうかということさ。」久保田さんは窓の外の洗濯紐にシャツと靴下を干しながら言った。
 久保田さんは浴衣を着て座った。
「近頃なんだい、ガールフレンドはいるのかい?」
「そんなものはおりません。」
大人はどうしてガールフレンドのことでからかおうとするのかしらと思った。
「私は先生の所で働いています。」
「君の歳で先の心配をしてどうするの?余分な時間をどう使おうと考えているんだい?」
「久保田さんが空手を教えてくれないかなと思ってます。」
「どうして?君の家柄だったら剣術じゃないのかな。」
 久保田さんはそう言ってビール瓶からひとくちすすった。
久保田さんは瓶を口まで持っていったのに、目は私をじっと見つめていて、それがドキドキした。彼は格闘技の達人で、そのしっかりと落ち着いた視線は決して相手をはずさない。
「でも、群集に向かって、例えばケンカのように、行かなければならない時にもっとも役立つのが空手だというのは本当ですか?」
「ケンカするのかい?」
「ちがいます久保田さん。偶然デモに巻込まれたんです。」
「国会議事堂前の件かい?僕の友達がたくさんあそこにいたから、聞いたんだ。ひどく負傷させられた者もいた。よくないよ、セイさん、そんなことに関わるなんて。」
「恐ろしいことでした。戦争のようでした。でもあれは本当に偶然なんです。
久保田さんはあんな風に巻込まれたことはありませんか?」
「主義として暴力は避けるんだ。暴動のこと話してくれ。」
「私たちは警官隊に投石などしなかったのに、警官たちは追いかけて来ました。
警官隊はこん棒で私たちをなぐり殺そうと準備していたのです。」
「私たちってのは?」「時田と私です。」
“Tokida and I.” 私は時田をデモから離そうとしたことを、彼のナイフについて話さずにいいたかったが、口が滑って戻れなくなっていた。
「先生のもう一人の弟子で十七歳です。とにかく暴動の中で時田は眼鏡を失くしてしまい、眼鏡がないと何も見えないのです。それで、私が彼をそこから連れ出そうと引っ張って、運よく踏み殺されずにすんだのです。」
「どうして空手を習いたいの?警官と戦うため?」久保田さんは目を細めて私をじろっと見た。
「久保田さん違います。自分を守りたいだけです。暴動でみんな乱暴になっていた、戦って逃げ道を開かなければならなかったんです。警官だけじゃなく、みんなが私たちを攻撃して来ました。久保田さん、誰も傷つけたくないのです。この次には自分を守ることを習いたいのです。」
「この次という機会をつくらないのが一番いいことだよ。セイさん、空手は逃げるが勝ちなんだ。争いがやってくるのがわかったら、さっさと逃げ出すんだ。君の言いたいことはよくわかるけれど、基本的な前提が違うんだ。空手は単なるスポーツとだけ考えて励んでほしい。君の体を鍛え、たぶん人格も高まらせる。つまるところ武道はそこだ。」
「私はたぶんどっちみちへたくそだろうと思いますけれど。」
私は私がむちゃをせずに消極的な態度をとると、他人は私を励ますことに気がついた。久保田さんも例外ではなかった。
「さあさあ、話しててもしょうがない。空手は君に自信を与え、修練はいい事になるさ。」
「それじゃ、教えてくれるんですか?」
「教えないわけがない。明日道場に来たら修行を始めよう。午後ならいつでも。」
「久保田さんありがとうございます。お世話になります。明日行きます。」
私は頭を下げて久保田さんの部屋から離れた。自分の部屋へ帰ると洗面器の上の鏡に向かって強そうに見えるか試してみた。腕まくりをして力こぶを出してみた。か細い腕だ。私は右手を空中にしゅっと突き出した、そしてその拳が警官のヘルメットにめり込むのを、それから左手で警棒をまるで割り箸のように二つに折ることをイメージした。
  私は七つの学校でずうっと最低の選手だった、級友たちは私をチームに加えなくてはならない時はいつでも不満の声をあげた。鏡に映った私は口をゆがめたり目をぐりぐりまわし、怒った侍のように見せようとした。いっしょうけんめい修行をすれば久保田さんのようになれるかもしれない。二段の黒帯をとれば。
  次の日、昼食のすぐ後に大学の道場に行った。久保田さんは固い板の間で横一列に並んだ七人に稽古をつけていた。男たちはみな裸足で、柔道着と同じような空手着を着ていた。黒帯の久保田さん以外はみな白帯だった。
「一!」
  久保田さんが叫ぶと、男たちは前方へ一歩大きく踏み出し、右手を同時に突き出し止った。
「姿勢を保って!三上、後ろの足をまっすぐに、二!」
  久保田さんは一人にどなった。そして号令をまたかけると、男たちは一歩踏み出し左手を突き出した。久保田さんは一人の手首を持って前方に引いた。その人は平衡を失ってよろめいた。
「身体を触れさせるな!柔道家は君を部屋の向こうへ投げ飛ばすぞ!」
 久保田さんは、隣のやさしいお兄さんではなく、厳しくて恐ろしい稽古の師匠だった。
一、二! 一、二! 
  久保田さんは鬼軍曹のように拍子をとって号令をし、男たちの間を豹のようにすり足で動いた。久保田さんは決して失敗を見逃さなかった。稽古の激しさには驚いたが、これまで武術の稽古を見たことはなかったのだ。私は刀による斬り合いの真剣さを教えるために、模擬戦の時、息子に目をつぶらせた剣豪のことを読んだのを思い出した。私はそんなことにいつでも対応できるかしらと思い始めた。けれど私は久保田さんにすでに教えてくれるよう頼んでいたので、今いる人たちの前で恥をかきそうだった。
  半時間ほどたって久保田さんは一休みの指示を出した。久保田さんは顔の汗をタオルで拭きながら
「それでどうだった?」と私に聞いた。
「習いたいです。というのも、柔道のように寝技がない。」
「柔道とはぜんぜん違うよ。来なさい。余分の稽古着を君が使えるよう用意したんだ。」
  稽古着に着替え、久保田さんの名が刺繍された白帯を締めた。久保田さんも白帯だったことがあったんだと思うと、元気づけられた。久保田さんは私にどう立つのか、拳の握り方、肩を動かさずに左右の正拳打ちをすることをわずかな時間で教えてくれた。久保田さんはこれが基本的な動きだと言ったが、身体の調和した動きは私には難しかった。いつも空手は神秘的で密教的だと思っていたが、やってみるとたいへんな動きだということを実感した。それから久保田さんは私を全身が映る鏡の前に立たせて稽古させた。鏡に映った人物は、六尺警棒やヘルメットは言うに及ばず、素手で瓦一枚割れそうもないように見えた。他の人たちは礼儀上私には無関心を装い、私は稽古を続けた。私は久保田さんをがっかりさせたくなかった。
 一時間後道場を離れた時、私の体は感覚を失っていた。大学の建物に沿って歩きながら、私は木の羽目板をこぶしでこつこつと叩いた。私のこぶしが一夜にして硬く、致死的になるように願っていたのだ。私の体は活性化し、空腹だった。大学の門の外は大きな書店だった。私はウィンドの中を眺め、時田とバン・ゴッホ展を思った。近頃、ゴッホの手紙が出版され、これを買ったら時田が喜ぶだろうと思った。彼はホントにゴッホが好きなのだ。
 私は書店に入った。
「『ゴッホの手紙』という本ありますか?」
「愛するテオ」と店員は顔を上げずに答えた。
「伝記の所か、美術の所をお探し下さい。もしそこになければ注文になります。」
 美術の棚で、私は『ゴッホの手紙』のことをすっかり忘れて、色彩図版のある厚い美術書に脱線してしまった。これまで見たことが無いほど高い新しい本を指でめくっていくと、ため息とともに一枚の絵を見つけた。それは少女の小さな肖像画だった。髪は後ろに丸くまとめて、あっさりとした襟のある黒いビロード地のドレスを着ていた。彼女の顔は右半身を向き、まっすぐ正面を見ていた。鼻は大きすぎ、下唇は厚く広かった、まぶたは夢見がちで眠そうな感じに見えた。あたかも破壊者のように、ドガと肖像画の右上に走り書きされた絵は、これまで見た中でもっとも美しい肖像だった。私はどうにかして彼女の目が私を見つめないものか、と望みながら、ものすごく集中して彼女の目を見つめた。絵なんだけど。その場所はひどく狭い通路だったので、他の人は私のまわりの本を手に取ろうとして私に接触した。他の客がみんな私を睨んでいる様で心地よくなかった。いつも誰かが近くにいる感じなので、私は画集の絵を無意識に私の体で隠していた。私はページ番号を覚えると、本を棚に返し、外に出た。
  混んだ列車に乗るまで、私はその本を買うこともできたんだということが心に浮かばなかった。しかし買わなくてよかったんだ。また、ヴァン ゴッホの本を買うのも忘れていて、それは残念だった。それで時田を驚かせたかったのだ。私は列車の混んだ通路に立ち、ぼおっと自動扉付近にいる若い女を眺めていた。彼女は私に背を向けて、大学生の制服を着た男と話していた。その男の云う事に何でもピンクの着物の襟の上の彼女の頭は細かくうなずいていたことが、私をオヤッと思わせた。彼女の髪はドガの少女のように、丸く巻かれていた。私は彼女が振り向いてくれないかと、人ごみの中をその二人にちょっとずつ近づいた。彼女の顔を見ないではいられなかった。しかし、私の見えたのは後ろから彼女の顔の半分くらいだった。彼女の顔のやわらかな頬の曲線は私をわくわくさせた。
  二駅を過ぎて、二人はドアから駅へ降りた。私はパニックになって、考えもせずに彼らの後を追って駅に飛び出した。私はほとんど小走りで、彼女の髪の椿油の香りの中、彼らを追い越した。階段までたどり着くと、何か忘れ物をしたかのように急に振り向いて、彼女の顔を見た。彼女は彼の話に相変わらす耳を傾け、彼の話以外の、私やその他の一切に無関心なようだった。彼女は丸顔でだんご鼻、笑うと金歯が光った。顔を見るんじゃなかった。
 その後私は三日間連続で道場にかよい、あまり空手の稽古はせずに、終わってからドガの絵を見に行った。その日その日で、絵が違ったように見えるというのは驚くべきことだった。絵の中の彼女は、ある日は哀愁漂い、ある日は幸せそうで、また他の時にはそうでもなかった。絵を見るたびに私は彼女の面影を心に焼き付けようと試み、それを記憶を元に絵に描こうとしてみた。

(訳堀田穣)
The Ink-Keeper's Apprentice
Allen Say
Houghton Mifflin, 1994

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